2008年6月19日木曜日

6月5日 Bible Study報告

〜Abundant life  豊かな人生 中巻より〜


古い性質を脱ぎ捨てる方法



パウロは、悪魔と罪に対する戦いについて次のように言っています。

「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」
ローマ人への手紙7:19


これは人間が持つ「古い性質」のことを言っています。古い性質とは、人間として生まれたときから持っている素質のようなものです。間違ったことをしようとし、罪を犯す傾向を持っていますので、私たちはこの古い性質と戦わなければなりません。

しかしイエス・キリストを信じて受け入れ、新しく生まれ変わったとき、「新しい性質」を受け取ることになります。

つまり、

自分の欲望を満足させるのは「古い性質」
神の喜ばれることを行うのは「新しい性質」

です。

クリスチャンになったからと言って、古い性質が無くなるのかというとそうではなく、この二つの性質を合わせ持つことになります。その結果、私たちの中では続けて霊的な葛藤が起こります。
前回学んだ悪魔との戦いだけでなく、私たちはこの古い性質、つまり自分の内側にある敵とも戦い続けなければなりません。


私たちがキリストを救い主として信じたときから、神はキリストの命と性質を私たちに与えてくださいました。私たちが強い誘惑や罪に陥る時、キリストの命、つまり新しい性質が現れるようにキリストを信頼し、神に求めなければなりません。

最初から自分自身を信頼せずに、祈りながらイエス・キリストだけを信頼し、イエス・キリストの性質を頼る時、私たちは古い性質に勝つことができるのです。


「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
ガラテヤ人への手紙2:20


Summary by Keita

5月29日 Bible Study報告

〜Abundant life  豊かな人生 中巻より〜


・悪魔(サタン)に打ち勝つ方法


「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。
そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
ヤコブの手紙4:7


サタンは、神の子とされたあなたの霊的な生活を絶えず攻撃してきます。もし、このサタンからの誘惑に陥ったとしても、神は私たちから決して離れませんが、その犯した罪によって神との交わりに影響を与えます。

悪の源であるサタンについて、キリストはこう言っています。

「悪魔は初めから人殺しであり、真理には立っていません。
彼のうちには、真理が無いからです。」
ヨハネの福音書8:44


このように、キリストによると悪魔は人殺しであり嘘つきです。アダムとエバを誘惑し、霊的な命である神との交わりを奪い取ったことからもわかるように、世の始まりから人殺しだったのです。

私たちは、神から新しい霊的な命を得ました。悪魔はその命を奪うことはできませんが、いつも誘惑し、神との交わりを壊そうとしてきます。

そうならない為に一番最初にしなければならないことは「神に従う」ことです。神に従わずして悪魔に立ち向かうことはできません。

何よりも先に神の御心を求め,その御心のままにすべてを行いましょう。確信を持ってイエス・キリストを生涯の主とし、聖霊に満たされている人間を悪魔は嫌うのです。ですからそうすれば自ずと悪魔は私たちから逃げ去るのです。


パウロはこう言っています。

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
コロサイ人への手紙2:15


これはキリストが十字架で死なれた時、悪魔とそのすべての支配と権威が敗北したことを示しています。そしてキリストは3日目によみがえり勝利を治めました。


確信を持って神に従い、神にだけ寄り頼み、キリストにあって動かない強い心を持って悪魔に立ち向かいましょう。
そうすれば悪魔は必ずあなたから逃げ去ります。


Summary by Keita

2008年5月29日木曜日

5月22日 Bible Study報告

〜Abundant life  豊かな人生 中巻より〜


今日の参加者は、5人と少ない。
テーマは8章の祈り。

お祈りは何のためにするの?
どんな風にお祈りするの?

主にこのふたつの基礎的な疑問について今日は勉強した。

わたしたちは祈りをもって、神様と関係する。
つまり、お祈りは私たちの親愛なる神様に、お話をすることだ。

そして、私たちのお祈りを神様は喜んで聞いてくださる。(詩篇66、19-20)
それに対して、神様は聖書の言葉をとおし、私たちに多くのことを話してくれる。
日々私たちが、聖書の言葉に向き合うことで、その神様に、聞くことができる。

今日は祈りにある3つのかたちも勉強。

(とりなしは、誰かのために;求める、感謝と賛美をする、言い表すと全てに当てはめられる。)
1、 求める祈り
2、 感謝と賛美
3、 言い表す祈り(Confession)
この3つの目的にそって、日々の祈りを組み立てるのも、お祈りを学ぶ一つの手かも。
Acoさんの、“求めるものを告白する際に、そんなことを求めていいのか、と考えてしまう“という、コメントもありました。

それにしても実に祈りに関する勧めは聖書にたくさんあるので、下にある聖書箇所を関心のある方は見てみてください。
参考:求めなさい、マタイ6,33.7,7.11.エペソ6,18.ヤコブ1,5.ピリピ4,6.ヨハネ第一3,21-22.5,14 
感謝、賛美しなさい、ヤコブ5,13テサロ二ケ第一5,18へブル13,15 
罪を言い表しなさい、ヨハネ第一1,9ヤコブ5,16

今日暗記した聖書箇所は、その多くの祈りへの薦めのなかのひとつ、テサロニケ第一5,17
„絶えず祈りなさい!“という、使徒パウロの言葉です。


Summary by Sora

2008年5月19日月曜日

5月15日Bible Study報告

〜Abundant life  豊かな人生 中巻より〜


聖書を読む方法


「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」
 マタイの福音書4:4

人が生きるのに必要な二つの糧として、神様は体にはパン、霊には御言葉を与えてくださいました。
人間が毎日食事をするのと同じように、神様の御言葉、つまり聖書も、霊の糧として毎日必要なものなのです。

ヨハネの福音書14:26では、

「助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

とあります。

つまり、私たちに聖書を一番良く教えてくれるのは聖霊です。そしてその霊の糧を毎日食べることによって、信仰が育まれて、クリスチャンとしての確かな人生を歩むことができます。

そしてここには忘れてはならない大切なことが3つあります。

1、聖書を読む前に祈りで聖霊の助けを求める。
2、特に心に残る部分に線を引く。
3、神様の御言葉を実行する。

ということです。

聖霊に満たされて、聖霊が神の御言葉を直接あなたに教えてくれるように祈りましょう。素直な気持ちで聖霊に助けを求めることによって、聖霊はあなたの心に必要な御言葉を個人的に語りかけてくれます。
そして特に心に残った箇所に線を引いてみましょう。線を引くことは御言葉を覚える一つの方法です。御言葉を覚えることによって、日々の生活の様々な出来事の中で聖書のことばを思い出すことができ、落ち込んでいるときから幸せなときまで、常に神様の臨在を目の当たりにすることができます。

また、ヤコブの手紙1:22にはこう記されています。

「また、御言葉を実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけのものであってはいけません」

私たちは神様に従順でなければなりません。聖書を読んで満足するだけでなく、祈りの中でそれが行われ、それぞれが示されたことを実際の生活の中で実践していく必要があります。それはクリスチャンがこの世界で生きていく中で、神様の素晴らしさを世の人に伝える証しにもなるのです。

私たちが道に迷わず、再び暗いところを歩まないために毎日聖書を読みましょう。聖霊の助けを求めながら聖書を読み始めると、その日に必要な霊的な糧になる御言葉を主があなたに見せてくださいます。


「あなたの御言葉は、私の足のともしび、私の道の光です」

詩編119:105


Summary by Keita

2008年5月14日水曜日

5月8日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第15課 最終章
「我らは......信ず」(ニケヤ信条)  「我は......信ず」(使徒信条)

上記のように複数形と単数形で表現されていることがあります。
「我ら」と複数形を用いる場合:正統派キリスト教会のすべてによって認められている、クリスチャンのすべてが神の啓示された真理と認めていることの表現。
「我」と単数形を用いる場合:救いが他の人々の態度によって左右されるものではなく、個人の信仰にしたがって立つものという表現。


A.てんかん症の少年と不信仰な父 (マルコ9:14-29) 
弟子達は悪霊を追い出すことができず、律法学者たちと論じ合っていた。

父親は半信半疑な信仰で「おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言った。そこでイエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と父親に言われた。
父親は「信じます!」と告白したと同時に、公に自分の信仰の弱さや無さを言い表した。イエスは父親を受け入れられた。  

半信半疑だった父親。どうしてイエスはそれを受け入れられたのでしょうか。 
半信半疑でも父親は「信じていた」。また、自分ひとりでは「信じる」ということができないとわかっていた。(自分の弱さをよく理解していた) 
イエスは「この種のものは、祈りによらなければ」ならないと言っています。祈りによって神の力に頼り信じることができるのです。 
一人では完璧に「信じる」というのは高慢なことで、無理なのことなのです。私たちの信仰には「神の力」が必要です。


B.死にかけている盗賊 (ルカ23:39-43)
ふたりの犯罪人がイエスとともに十字架にかけられていた。 

ひとりの犯罪人  :ののしった 
もうひとりの犯罪人:一人目をたしなめ、神を恐れた
            「自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方(イエス)は、悪いことは何もしなかったのだ。」
             「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 
イエス        :「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

イエスはその犯罪人に赦しと天における永遠のいのちを約束すると答えられました。
このことから、私たちは次のような救い(永遠のいのちのプレゼント)の条件を知ることができます。
「自分の罪を認め」、「イエスを神と信じ」、「告白した」ならば、救われる。


C.ピリピの看守 (使徒16:25-34)
  ・真夜中にパウロとシラスは神に祈りつつ賛美をし、他の囚人たちが聞き入っていた
  ・大地震が起こり、とびらが全部開き、鎖も解けた
  ・看守はみなが逃げたと思い自殺しようとしたが、みなそこにいて尚且つ「自害してはいけない。」ととめられた
上記の3つのことが起こり、看守は「救われるためには何をしなければなりませんか。」と質問した。

パウロは「主イエスを信じなさい」という条件を出し、「あなたもあなたの家族も救われる」という約束をしました。

回心した看守はパウロたちの打ち傷を洗い、バプテスマを受けた。そしてパウロたちと神を信じたことを心から喜び一緒に食事をした。


D.信じて信仰を告白すること (ローマ10:9-13)
救われるためには「心で信じて、口で公に言い表す」という二つの条件が挙げられています。
神を求めるものはだれでも「救われ」ます。また救われた者は「証人」となり、「失望させられない」という約束があります。

言葉をもって告白することが必要とされているのはどうしてでしょうか。(JUICYであがった意見)
・信仰の友をえることができる
・感情のような感じや雰囲気ではなく、自分の確信や自信へとつながる
・告白したいという与えられた恵み
・信仰を告白することによって「証人」へと変えられる
・信仰には行動が必要。つまり切っても切り離せない関係。


E.イエスは戸をたたかれる (黙示録3:20)
戸とは私たちの心や魂への扉のことです。
     イエスはその戸をたたく→戸を開けたら→中に入り、ともに食事をする
これは、
     イエスはいつも傍にいて、私たちに戸を開けるようにいってくれています。
     →また、信じて受け入れたら、→神との霊的な交わりがあるとも言っています。

神様は私たちが想像している以上の恵みを与えてくださる方です。また、約束を決して破ったりしません。
ですから、これまで学んできた神様と人との約束は破られることはありません。
そのことを忘れず、日々神様と喜んで生きていきたいなと私は思いました。

15課にわたって行ってきたこの本も今回で終わりです。
以前より聖書に関する知識が増えたり、神様のことをもっと知ることができたりそれぞれしたと思います。また、疑問が増えたという人もいるかもしれません。
いろいろ与えられた心や考え(疑問も含む)があるかと思います。これはとてもいいことだと思います。続けて聖書から学ぶことによって私たちは神様を知り、神様との生活を楽しみましょう。

次回からは新しい本を使って学びますが、その中でもより多くの知識や恵みを知ることができますように。また、疑問が少しずつ解決していきますように。


Summary by Mai

2008年5月8日木曜日

5月1日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第14課
「私たちは死者の復活と来るべき世のいのちを待ち望む」ニケヤ信条
今回は未来に対する望みである、体の復活と天の国について4つの箇所から学びました。

A.イエスは天の国について教えられた (ヨハネ14:1-3) 
イエスは十字架にかかる前の晩に、2つのことを約束しています。

1)「父の家には住まいがたくさんあります......わたしは場所を備えに行くのです。  
天の国には境界線も限界もなくたくさんの人(あらゆる国民)が住めるようになっているのです。(参:黙示7:9)
2)「また来て、あなたがた(キリスト者)をわたしのもとに迎えます。」

イエスは「最後まで『神を信じ、またわたしを信じなさい。』」と教えています。聖書は新しい永遠の家に迎えられると教えてくれています。

B.イエスが再び来られたとき、何が起こるか (Ⅰテサロニケ4:13-18) 
聖書はキリストが再び人間世界に介入して再臨され、それによって世界が全く変えられ、御国の時代が始まることを預言しています。そのときに何が起こるのでしょうか。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」

すでに死んだキリスト者のことをパウロは「眠った」という言葉を使っています。これはイエスとともによみがえることを意味しています。眠ったキリスト者は最初によみがえります。そして、生き残っているキリスト者は彼らと一緒に一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。

すべてのキリスト者たちの未来:主と共にいる!!!

死に対する私たちの態度
悲しみに沈むことはありません。また慰め合いなさい。そして、主の言葉をもって望みをもちましょう。

C.からだの復活 (Ⅰコリント15:12,13,20-24,35-38,42-58)
今も昔も、魂の復活を信じても、体の復活を信じない人がいます。パウロは時間をとって復活の真理を説いています。
パウロは「イエスの復活」を証拠にあげて、キリスト者も復活すると説明しています。
イエスが死に初めて勝利した方だと教えています。その事を「初穂」であるとたとえています。

復活のからだと今のからだの違い
1)栄光がある
2)朽ちることのないからだ
3)強い
4)御霊に満たされている

私たちの労苦は無駄になることはありません。また、復活という「死に対する勝利」さえも得ることができるのです。 こういった確信とともに試練に立ち向かうことができますね。

D.天の国 (黙示録21:1-4,22:1-5)

では最後に天の国とはどんなところでしょうか。
ヨハネが見たものと一緒に考えていきましょう。

新しい天と地があり、もはや海はありません。聖なる都があります。
そこでは神が人とともに住み、ともにいます。
涙はふかれ、死も痛みも苦しみもないところです。
神とイエスのところからいのちの水の川が流れ、その傍にはいのちの木があります。その他多くの素晴らしい情景が描かれていますが、私たちの口では言い表すことのできない素敵な場所でしょう。
この箇所で書かれている8つの祝福:
・のろわれるべきものはない・神とイエスの御座が都にある・神に仕える
・神を仰ぎ見る・額に神の名がしるされる・夜がない・主がてらしてくれる・永遠の王がいる

私たちの想像を超えた天の国。今回はこのことを勉強しました。未来への約束が私たちの望みになるね。
神様とイエス様の教えていることに従い、天の国へとまっすぐ進みたいね。

Summary by Mai

2008年4月27日日曜日

4月24日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第13課 後半
今回はパウロの回心を通して「悔い改め」について考えました。

D.使徒の働き22章3-16節

パウロは神様に出会う前、当時のクリスチャンを迫害していました。(4、5節)
そんなパウロは不思議な経験をとおして神様に出会いました。ダマスコという町に向かっている時に天からまばゆい光が差し、パウロは地面に倒れました。

すると、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」という神様の声を聞きました。(パウロはもともとサウロという名前)
そのあと、神様はパウロにダマスコに行くように命じました。ダマスコに着くとアナニアという人がパウロを待っていました。神様は前もってアナニアにパウロの事を伝えていました。アナニアは律法を重んじていて敬虔でとても評判のいい人でした。また神様に対しても忠実な人でした。そのアナニアはパウロが以前クリスチャンを迫害していたと知っていたのにも関わらず彼に対して愛を持って接しました。そして、バプテスマを授けるようにすすめました。

こうして、パウロはクリスチャンを迫害する人から神様に付いていく決心をしました。
でも、この決心は容易いことではなかったようです。クリスチャンをたくさん迫害したパウロは罪悪感のあまりバプテスマを受けることをためらいました。でも、アナニアに後押しをされて決心に至りました。

バプテスマを遅らせた時がいいときと、遅らせない方がいいときがあります。この2つをみていくまえに、バプテスマについて復習しましょう。

バプテスマは自分の罪を悔い改めて、神様についていこうという決心をしたという告白であり、またそれを証しする為の印です。なので、罪を悔い改めないでバプテスマを受けることはできません。神様の前に素直になる必要があります。

1.遅らせた方がいいとき:
もし、神様の前で心が正しくないとき、つまり罪を悔い改めてないときはバプテスマを受けても神様は喜びません。(使徒8章21節)こういう場合はバプテスマを遅らせて、きちんと罪を悔い改めるまで待つほうがいいです。

2.遅らせない方がいいとき:
もし、本当に心から悔い改めて、神様を信じ、神様についていく決心ができたならばすぐにバプテスマを受けたほうがいいと聖書は勧めています。(マルコ16章16節)

誰でも、罪を悔い改めたら神様に赦されて、また神様の子供とされる特権を与えられます。素晴らしいですね!

Summary by Grace

2008年4月21日月曜日

4月17日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第13課 クリスチャン生活を始めること(前半)
「我らは、罪の赦しのための唯一のバプテスマを信じ認む」(ニケヤ信条)

Introduction
放蕩息子のたとえ(第3課で学んだ、ルカ15:11-32)では弟息子だけでなく兄息子も罪人であるということが言えるでしょう。聖書は『すべての人』は罪人であると言っています。この罪が神と私たちの関係の隔てとなっているのです。ですから、神との関係で、人が必要としている第一に、そして最大の事柄は、自らの『罪の赦し』です。上記にあげたことを13課では5つの項目で学んでいきたいと思います。

今週は3つの項目まで進みました。
A)罪の確認
B)罪の根源
C)罪とその赦し

A)自らの罪の確認(ヨハネ8:1-11)

この聖書箇所の姦淫の現場から連れてこられた女の話では、パリサイ人たちはイエスをためそうとして「姦通の罪を犯した者を石打ちにする」という古い律法を引用しイエスの反応をみました。
イエスはその律法に対して同意も異議も言わず、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。それを聞いたパリサイ人たちの中で石を投げたものはいませんでした。自分達の中に「罪」を確認したからです。

この話では、私たちはみな罪人であるということが分かります。また、人を裁く権利は人ではなく神にあるのです。「人間は造り主である神の前では罪人である。(ローマ3:10b)」神の基準に達している人はいないのです。

B)罪の根源(マルコ7:14-23)

繰り返しになりますが、聖書は私たちはみな罪人であると教えています。では、その罪はどこからやってくるのでしょうか。

マルコ7:1-13では、パリサイ人たちはどの食べ物がきよいのかなどの儀式的なきよさに重きを置いていたこと分かります。 そこでイエスは「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです。(マルコ7:15)」と言われました。つまり食べ物→きよい 人の心→罪深い人の「心」から出てくる悪い思いが人を汚すのです。

C)罪とその赦し(Ⅰヨハネ1:5-10)

罪人である私たちに対して、神はどのようなお方でしょうか。神は世の光。真実、義人、無実性、完璧な聖さ…神と私たちは決して交わることのない、「光と闇」のような関係です。

ではどうすれば私たちはこの罪の赦しを受けることができるでしょうか。また、神との関係を築くことができるのでしょうか。9節には「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。私たちは神に「自分の罪を言い表す」ことによって「罪の赦し」が与えられ、「きよい」ものされるのです。それだけではなく、神との関係をも築くことができるようになるのです。

次回は「パウロの回心」「ピリポとエチオピヤの高官」の話を通してバプテスマについて学んでいきます。

Summary by Mai

2008年4月14日月曜日

4月10日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第12課(後半)
「我々は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」(使徒信条)
「我らは、使徒よりの、唯一の聖なる教会を信ず」(ニケヤ信条)
前回の続きで第12課の問いC~Eを使徒信条及びニケヤ信条の上記の箇所から次のポイントについて学びました。

1)初代教会が直面した問題とは
2)初代教会の拡大
3)初代教会の信じていること

それぞれのポイントを簡単に見ていくと・・・

1)初代教会が直面した問題とは
コリント人への手紙5章17,18節、27-42節を見ると初代教会が迫害にあっていたことが分かります。

この迫害に対して使徒たちは次のようにして立ち向かいました。

・神を信じた。
・イエスの為に迫害を受ける価であることを喜んだ。
・毎日宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝えた。

2)初代教会の拡大
パウロやイエスの弟子達が始めた初代教会はだんだん範囲を広げて福音が宣べ伝えられました。その結果いくつかの教会が立ち上がりました。
(例:テサロニケの教会やコリントの教会)

3)初代教会の信じていること
初代教会は上に述べた使徒信条及びニケヤ信条を信仰の基盤としていました。
この二つの信条によると教会は「唯一の、聖なる、公同の、使徒的」なものでなければなりませんでした。
それはつまり、唯一の神を信じ、聖なるものとされ、ユニバーサルで、使徒的である、ということです。

Summary by Grace