2008年4月21日月曜日

4月17日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第13課 クリスチャン生活を始めること(前半)
「我らは、罪の赦しのための唯一のバプテスマを信じ認む」(ニケヤ信条)

Introduction
放蕩息子のたとえ(第3課で学んだ、ルカ15:11-32)では弟息子だけでなく兄息子も罪人であるということが言えるでしょう。聖書は『すべての人』は罪人であると言っています。この罪が神と私たちの関係の隔てとなっているのです。ですから、神との関係で、人が必要としている第一に、そして最大の事柄は、自らの『罪の赦し』です。上記にあげたことを13課では5つの項目で学んでいきたいと思います。

今週は3つの項目まで進みました。
A)罪の確認
B)罪の根源
C)罪とその赦し

A)自らの罪の確認(ヨハネ8:1-11)

この聖書箇所の姦淫の現場から連れてこられた女の話では、パリサイ人たちはイエスをためそうとして「姦通の罪を犯した者を石打ちにする」という古い律法を引用しイエスの反応をみました。
イエスはその律法に対して同意も異議も言わず、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。それを聞いたパリサイ人たちの中で石を投げたものはいませんでした。自分達の中に「罪」を確認したからです。

この話では、私たちはみな罪人であるということが分かります。また、人を裁く権利は人ではなく神にあるのです。「人間は造り主である神の前では罪人である。(ローマ3:10b)」神の基準に達している人はいないのです。

B)罪の根源(マルコ7:14-23)

繰り返しになりますが、聖書は私たちはみな罪人であると教えています。では、その罪はどこからやってくるのでしょうか。

マルコ7:1-13では、パリサイ人たちはどの食べ物がきよいのかなどの儀式的なきよさに重きを置いていたこと分かります。 そこでイエスは「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです。(マルコ7:15)」と言われました。つまり食べ物→きよい 人の心→罪深い人の「心」から出てくる悪い思いが人を汚すのです。

C)罪とその赦し(Ⅰヨハネ1:5-10)

罪人である私たちに対して、神はどのようなお方でしょうか。神は世の光。真実、義人、無実性、完璧な聖さ…神と私たちは決して交わることのない、「光と闇」のような関係です。

ではどうすれば私たちはこの罪の赦しを受けることができるでしょうか。また、神との関係を築くことができるのでしょうか。9節には「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。私たちは神に「自分の罪を言い表す」ことによって「罪の赦し」が与えられ、「きよい」ものされるのです。それだけではなく、神との関係をも築くことができるようになるのです。

次回は「パウロの回心」「ピリポとエチオピヤの高官」の話を通してバプテスマについて学んでいきます。

Summary by Mai

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