2008年4月27日日曜日

4月24日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第13課 後半
今回はパウロの回心を通して「悔い改め」について考えました。

D.使徒の働き22章3-16節

パウロは神様に出会う前、当時のクリスチャンを迫害していました。(4、5節)
そんなパウロは不思議な経験をとおして神様に出会いました。ダマスコという町に向かっている時に天からまばゆい光が差し、パウロは地面に倒れました。

すると、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」という神様の声を聞きました。(パウロはもともとサウロという名前)
そのあと、神様はパウロにダマスコに行くように命じました。ダマスコに着くとアナニアという人がパウロを待っていました。神様は前もってアナニアにパウロの事を伝えていました。アナニアは律法を重んじていて敬虔でとても評判のいい人でした。また神様に対しても忠実な人でした。そのアナニアはパウロが以前クリスチャンを迫害していたと知っていたのにも関わらず彼に対して愛を持って接しました。そして、バプテスマを授けるようにすすめました。

こうして、パウロはクリスチャンを迫害する人から神様に付いていく決心をしました。
でも、この決心は容易いことではなかったようです。クリスチャンをたくさん迫害したパウロは罪悪感のあまりバプテスマを受けることをためらいました。でも、アナニアに後押しをされて決心に至りました。

バプテスマを遅らせた時がいいときと、遅らせない方がいいときがあります。この2つをみていくまえに、バプテスマについて復習しましょう。

バプテスマは自分の罪を悔い改めて、神様についていこうという決心をしたという告白であり、またそれを証しする為の印です。なので、罪を悔い改めないでバプテスマを受けることはできません。神様の前に素直になる必要があります。

1.遅らせた方がいいとき:
もし、神様の前で心が正しくないとき、つまり罪を悔い改めてないときはバプテスマを受けても神様は喜びません。(使徒8章21節)こういう場合はバプテスマを遅らせて、きちんと罪を悔い改めるまで待つほうがいいです。

2.遅らせない方がいいとき:
もし、本当に心から悔い改めて、神様を信じ、神様についていく決心ができたならばすぐにバプテスマを受けたほうがいいと聖書は勧めています。(マルコ16章16節)

誰でも、罪を悔い改めたら神様に赦されて、また神様の子供とされる特権を与えられます。素晴らしいですね!

Summary by Grace

2008年4月21日月曜日

4月17日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第13課 クリスチャン生活を始めること(前半)
「我らは、罪の赦しのための唯一のバプテスマを信じ認む」(ニケヤ信条)

Introduction
放蕩息子のたとえ(第3課で学んだ、ルカ15:11-32)では弟息子だけでなく兄息子も罪人であるということが言えるでしょう。聖書は『すべての人』は罪人であると言っています。この罪が神と私たちの関係の隔てとなっているのです。ですから、神との関係で、人が必要としている第一に、そして最大の事柄は、自らの『罪の赦し』です。上記にあげたことを13課では5つの項目で学んでいきたいと思います。

今週は3つの項目まで進みました。
A)罪の確認
B)罪の根源
C)罪とその赦し

A)自らの罪の確認(ヨハネ8:1-11)

この聖書箇所の姦淫の現場から連れてこられた女の話では、パリサイ人たちはイエスをためそうとして「姦通の罪を犯した者を石打ちにする」という古い律法を引用しイエスの反応をみました。
イエスはその律法に対して同意も異議も言わず、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。それを聞いたパリサイ人たちの中で石を投げたものはいませんでした。自分達の中に「罪」を確認したからです。

この話では、私たちはみな罪人であるということが分かります。また、人を裁く権利は人ではなく神にあるのです。「人間は造り主である神の前では罪人である。(ローマ3:10b)」神の基準に達している人はいないのです。

B)罪の根源(マルコ7:14-23)

繰り返しになりますが、聖書は私たちはみな罪人であると教えています。では、その罪はどこからやってくるのでしょうか。

マルコ7:1-13では、パリサイ人たちはどの食べ物がきよいのかなどの儀式的なきよさに重きを置いていたこと分かります。 そこでイエスは「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです。(マルコ7:15)」と言われました。つまり食べ物→きよい 人の心→罪深い人の「心」から出てくる悪い思いが人を汚すのです。

C)罪とその赦し(Ⅰヨハネ1:5-10)

罪人である私たちに対して、神はどのようなお方でしょうか。神は世の光。真実、義人、無実性、完璧な聖さ…神と私たちは決して交わることのない、「光と闇」のような関係です。

ではどうすれば私たちはこの罪の赦しを受けることができるでしょうか。また、神との関係を築くことができるのでしょうか。9節には「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。私たちは神に「自分の罪を言い表す」ことによって「罪の赦し」が与えられ、「きよい」ものされるのです。それだけではなく、神との関係をも築くことができるようになるのです。

次回は「パウロの回心」「ピリポとエチオピヤの高官」の話を通してバプテスマについて学んでいきます。

Summary by Mai

2008年4月14日月曜日

4月10日Bible Study報告

Hugh Trevor 著 「What Christian Believe ~クリスチャンは何を信じるか~」 より

第12課(後半)
「我々は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」(使徒信条)
「我らは、使徒よりの、唯一の聖なる教会を信ず」(ニケヤ信条)
前回の続きで第12課の問いC~Eを使徒信条及びニケヤ信条の上記の箇所から次のポイントについて学びました。

1)初代教会が直面した問題とは
2)初代教会の拡大
3)初代教会の信じていること

それぞれのポイントを簡単に見ていくと・・・

1)初代教会が直面した問題とは
コリント人への手紙5章17,18節、27-42節を見ると初代教会が迫害にあっていたことが分かります。

この迫害に対して使徒たちは次のようにして立ち向かいました。

・神を信じた。
・イエスの為に迫害を受ける価であることを喜んだ。
・毎日宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝えた。

2)初代教会の拡大
パウロやイエスの弟子達が始めた初代教会はだんだん範囲を広げて福音が宣べ伝えられました。その結果いくつかの教会が立ち上がりました。
(例:テサロニケの教会やコリントの教会)

3)初代教会の信じていること
初代教会は上に述べた使徒信条及びニケヤ信条を信仰の基盤としていました。
この二つの信条によると教会は「唯一の、聖なる、公同の、使徒的」なものでなければなりませんでした。
それはつまり、唯一の神を信じ、聖なるものとされ、ユニバーサルで、使徒的である、ということです。

Summary by Grace